内気な第二子の小学校入学①
私が大山ねずの命に初めて心底すがったのは、第二子が小学校に入学する時期です。
第二子は家ではよく喋るのですが、保育園では気を許した友達以外とはほとんど口を聞きませんでした。
特に先生、その他の大人と喋るのはハードルが高かったようです。
入園当初は同じクラスの子と遊ぶことも喋ることもせず、みんなが遊んでいるのを眺めているだけ。
数か月して初めて友達ができたのをきっかけに、徐々に友達の輪も広がり、子ども同士なら喋るようになっていきました。
年長の時はみんなの前で友達二人と歌まで披露できるようになったのですが、それでも先生や、あまり関わらない子達に自分から話しかけることはなかったようです。
先生から話しかけてもごく小さな声で返事をするだけ。
自分から話しかけて友達を作るタイプではありませんし、小学校に上がる前から私はハラハラしていました。
仲良しの子が一緒の学校だったら心配はなかったのですが、学区のせいで同じ小学校に進む子はクラスで2人だけ。
もう一人の子は性別も違いますし、うちの子とはほとんど喋ったことのない子です。
なので親としては心配で仕方ありませんでした。
しかし当の本人は、友達が別の小学校に行ってしまうのを残念だとは思っていたようですが、心配とか不安とかそういう気持ちはなかったようです。
同じ学童だから学校が終わったら遊べると言って、私より断然ポジティブでした。
それでも私の不安は消えず、苦しい日々が続きました。
そんなある日、私がこんなんでは子供にも悪影響だと思い、母からもらった教会図書を紐解くことにしました。
その時私が読んだのは、「幸福の光2 悩み別すがり方参考書」という本です。
第一章は悩みの解決に向けてどう取り組んでいくべきかが、約30ページにわたって書かれ、第二章は夫婦の悩み、子供の悩み、対人の悩み、仕事の悩み、生活の悩み、健康の悩み、それぞれの悩みについて、だいたい20ページほど割かれ、その他に希望や方位についても触れられています。
それぞれの悩みの原因となるものを探り、悩みを解決するためのすがり方、祈願の仕方、悩みの解決に向けてどうあるべきかが事細かく書かれた本です。
私は第一章と子供の悩みの節を熟読しました。
大山ねずの命の教えの基本が、その時初めて頭にスッと入ってきました。
● 悩みを抱えた時、表面的な解決は真の解決にならない。根本を解決しない限り、いつか再び同じ問題を抱える可能性がある。
例えば仕事の問題なら転職、夫婦の問題なら離婚、そして私が悩んでいた子供の性格による入学の問題であれば、学区内の学校ではなく、子供の友達と同じ学校に通わせる等は表面的な問題解決に過ぎず、根本を改善してこそ、その悩みから本当の意味で解放される。
● 悩みの原因を自分以外のものに求めず、自分自身に原因があると考える。
他のものが悪いと考えてしまうと、それが変わらない限り悩みが解決しない。自分自身にある原因を解消していくことによって悩みは消える。
同じようなことを何度も勉強会で聞いたり、教会図書で読んできたはずですが、聞き流す、読み流すだけで、胸に刻むこともなかった教えです。
私はその時ようやくその意味を悟りました。
結婚生活
夫とはいわゆるスピード婚でした。
遠距離だったので、それなら結婚して一緒に暮らせるようにしようということになり、出会って数ヶ月で互いの両親に許可を取り、慌ただしく婚姻届提出という流れ。
結婚前に同棲した方がいいと世間では言われていますが、確かにその通りだと実感したのは結婚後割とすぐでした。
一緒に暮らし始めて分かったこと、気づいたことがたくさんあります。
まず、生活リズムがまったく違うことに驚きました。
学生時代、独身時代は夜更かしもたくさんしましたが、基本的に私は朝が一番テンション高い朝型。
彼は夜行性と言っていいくらいの夜型。
私はせっかちで面倒なことはさっさと片づけるタイプ。
彼は面倒なことは後回しにしてやるべきことを溜めるタイプ。
私はお金も物も無駄遣いが大嫌い。
彼はお金も物も無駄遣いばかり。
私はうっかりミスが多い。
彼は滅多にミスをしない。
私は好き嫌いはほとんどなく、野菜を中心とした健康的な食事を心がける方で、食に対して好奇心旺盛。
彼は食べず嫌いで好き嫌いも多く、牛肉、ファーストフード、アイスクリームが大好物で、食に対して保守的。
私はビデオゲームを一切しない。
彼はビデオゲームが大好き。
私は放任主義。
彼は口うるさい束縛型。
お互い全く違う場面、状況で大雑把、几帳面になる。
お互い全く違う場面、状況で楽観的、悲観的になる。
共通の趣味が全くない。
価値観が違い過ぎる。
意見が合わない。
そんなことスピード婚だろうが結婚する前に分からない?と疑問に思うかもしれませんが、付き合ってる時は本当に気づきませんでした。
良い部分しか見えていなかったのです。
それは向こうも思っているはずなのでお互い様です。
こんな真逆な私たちですが、"短気"という共通点があります。
なので結婚半年くらいから喧嘩が多くなりました。
客観的に見ても長続きしなパターン。
彼には良いところもあり、愛情もありましたが、結婚後すぐ子供を授からなければ、しんど過ぎて別れていたと自分でも思います。
子供が生まれてからも私たちの溝は埋まりませんでした。
彼の態度や行動を見る度に、むしろ溝はどんどん深まっていくばかり。
第二子が生まれても喧嘩は絶えず、何度も離婚を考えました。
口論になって実家に帰ると何度も言いましたが、その度に引き留められて仕方なく一緒にいるといった感じ。
彼との関係と経済状況は最悪でしたが、そばに暮らしている義両親が何かと助けてくれて、それ以外のことで不幸だと感じることはありませんでした。
また、第一子を妊娠中、暇なことが多かったので教会図書を時々読むようになりました。
内容はやはり頭に入ってこなかったものの、もう少し真剣に学んでみよう、祈願ももっとちゃんとしようという気持ちになっていたことで、不安になった時は気持ちを落ち着かせるため祈願をする習慣ができました。
なぜ不安なのか、自分の胸の内を全て訴えると、不思議と心が軽くなっていくのです。
実家は簡単に行けない距離なので、大山ねずの命が精神的支えになっていたと言えます。
以前より心をこめた祈願をするようになりましたが、それでも朝夕の祈願はまだ決まった定型文を唱えているだけでした。
そして心の中は、未来への不安と夫への不満で一杯でした。
二十代と十教訓
無事大学を卒業した私は、しばらくの間海外に滞在した後とある企業の事務職をしていました。
和気あいあいとした職場で、色々な人と知り合えて、恋愛もできて、今思い返しても楽しい二十代だったのですが、なぜかいつも心の底にメランコリーがこべりついていました。
日々充実していても、一人になると孤独でやるせなくなる。
楽しい反面色々なことに焦り、不安を感じていた時期でした。
そんな情緒不安定な二十代でしたが、神様に頼ろうという気は起きず、毎日薄っぺらな祈願はしていましたが、本気で救いを求めたことはありませんでした。
それでも一か月に一度、横浜へは欠かさず参拝していました。
実家暮らしでしたが、この頃には一人で自主的に行くようになっており、面倒だと思いながらも勉強会にも出席していました。
ただ、勉強会に出席しても「正論だよね。そういう風にできるよう心がけよう」くらいに思うだけで、心を動かされるとか、心に染み通るとか、そういった感覚には依然として至りませんでした。
それでも参拝と勉強会を続けていた理由は、ここで辞めたら罰があたるという強迫観念に近かったと思います。
二十代から気が向いた時に教会図書を読むようにもなりました。
確かに良いことは書かれているのですが、なぜか内容が頭に入ってきません。
教会の基本的なことを学んで来なかったため、普段の生活では使わない言葉の意味を理解できませんでした。
運命実体?三筋の道?教会十教訓?
ちんぷんかんぷんな言葉が何度も登場するのですが、その意味を調べようともしなかった私。
ちなみに教会十教訓とは、人との縁を深めるための教訓です。
それを知ったのはわずか数か月前。
小学校の道徳で習うような日常生活に役立つ素朴な教訓なので、ここに載せておきます。
<教会十教訓>
1 肉親 身内 近所同士は 和合せよ 和合に努めよ
2 妥協せよ 妥協に進めよ
3 争うな 争いを避けよ
4 人を恨むな 過去を忘れよ
5 人を憎むな 人の罪を許せよ
6 人の陰口をたたくな 自己の過去を反省せよ
7 欲に走るな 時期を待て
8 責任を果たせよ 重荷を負うな
9 人を裏切るな 自己の失望したときを思い出せよ
10 身勝手な行動を取るな 相手にも自由を与えよ
それぞれの教訓の詳しい意味を知りたい方はこちらへどうぞ。
https://shinjikyoukai.jp/gaiyou/jyukkyoukun.html
大学時代
大学1年になり私は一人暮らしを始めました。
初めのうちは規則正しい生活をしていたのですが、サークルに入ってから一変。
不規則で怠惰な生活の始まりです。
祈願もほとんどしてなかったと思います。
実家より横浜の新総本部に近くなったのに参拝に行かなかった気がします。
正直記憶がありません。
とにかく大山ねずの命とは以前より距離ができました。
大学2年生の時、人生で最大の過ちを犯しました。
自業自得ですが、それによってひどく傷つき、どん底に突き落とされました。
大学へ行けなくなり、自分では気づきませんでしたが、食欲も落ちていたようで周りから心配されるほど急激に痩せ細っていきました。
笑顔になれない日々が一か月くらい続いたと思います。
見かねた母が大学を辞めてもいいと言ってくれました。
何もする気力がなく、大学もずっと休んでいたので、このままずるずる在籍していても無意味だと思い、すぐに退学届けをもらいに行きました。
大学は第一志望のところで、友達もたくさんいて楽しいとこでしたが、私は退学することばかりを考えていました。
なんの躊躇いもなく退学届けにペンを走らせました。
そこからの記憶が曖昧なのですが、横浜へ参拝へ行ったか、もしくはほとんど読んだことのない教会図書を読んだかしました。
そして心をこめて祈願をしたのです。
それが初めての誠実な祈願でした。
『このまま本当に退学すべきでしょうか?どうか私にとって一番良い方向へと心をお導き下さい』
祈願する前まで確かに私の心は退学で決まっていたのですが、不思議なことに、大学へ戻って頑張ろうという方向に気持ちが動いたのです。
暗かった心に再び明かりが射し込み、笑顔を取り戻すことができました。
やっぱり退学しないと告げた時母は驚いていましたが、同時にほっとしているようにも見えました。
今考えてもあの決断は正しかったと言えます。
学科で勉強したことが職業として生かされているわけではありませんが、私が今いる環境で絶対に必要なことの基礎を学べたからです。
あの時大学を辞めていたら、その10年後私は大変な苦労することになったはずです。
なので、私の心を変えていただいた大山ねずの命に大変感謝しています。
当時の私は、もちろん将来のことなど知るはずありませんが、祈願したことで前向きになれたことに感謝していました。
それからは怠っていた祈願もするようになり、横浜に定期的に参拝するようにもなりました。
しかし神の教えについていくことはまだできませんでした。
勉強会は出席しても眠くなるだけで、聞いたことも右から左に流れていくだけ。
何かをつかみ取りたいというモチベーションもありませんでしたが、救っていただいた義理のような感じで祈願をし、月に1度参拝へ行く日々が続いたのです。
幼少期から高校時代
祖父母、母が信者だったため、私は生後間もなくして信者になりました。
赤ちゃんだったのでもちろん自分の意思ではありませんが、自分が信者だから我が子もというように、生まれてすぐに親によって入信された方は多いと思います。
物心ついた時から朝夕6時の祈願は当たり前のことになっていました。
大山ねずの命における祈願について簡単に説明しておきます。
<祈願>
朝
その日一日の心の平和を願い、悩みがある時はそれを神直使に事細かく伝え救いを求める。
夕方
その日一日どのような心で過ごせたかを振り返り、反省し、心を清める。心がお守りいただけたことを神直使に感謝する。
その他
嬉しいこと、悲しいこと、不安なことが起きた時は、その都度祈願をする。
何らかの事情でできない限り朝夕6時に毎日行ってきたわけですが、子どもの頃は朝夕どのような祈願をするのか知らなかったため、上記のような祈願はできてませんでした。
というか、高校生までどういう祈願をしていたのか全く記憶にありません。
それだけ教会の教えが頭に入っていなかったという事です。
小学校低学年あたりまでは数か月に一度、家族と共に車で横浜の新総本部まで参拝に行っていました。
中学年あたりから電車に変わったのだと思います。
車で訪れていた頃は信者ではない父も一緒に来ていました。
小学生あたりまでの参拝時の記憶と言えば、敷居は絶対踏んではいけないということを覚えたのと、教会の食堂が随分と混んでいたことくらいです。
七五三の儀式に出たことも覚えていますが、内容は全く覚えてません。
私が子供の頃は、大山ねずの命にはまだ共丸姫先生という、大山ねずの命の神魂が封じ込められた直々の使者、直使がご存命でした。
母はよく、共丸姫先生は私たちの心のお母さんなんだよと言っていましたが、それ以外教会の話を母としたことはなかったと思います。
私と弟に積極的に大山ねずの命の教えを語ることはありませんでした。
一度共丸姫先生に直に会ったことがあるそうですが、まだ弟が生まれていなかった時、男の子供に泣かされる運命と予言されたことがあるそうです。
確かに弟は小学生の時までとんでもない問題児で、母は大変な思いをしていました。
高校まではこんな感じです。
横浜の新総本部へ行くのがとても面倒で、教えを積極的に学ぼうとか、教会について知ろうという姿勢は無く、教えの基本的なことすら知りませんでした。
ただ機械的におざなりな祈願をするだけの信者でした。